gangheho 曰く、
去る3月29日、日本漢字学会創立大会の懇親会で初めて(やっと?)安岡孝一に会えましたが、写真とは幾分違うというのが初対面の印象。安岡孝一がどうも私(朱一星)の論文に興味を持ってくれたようで、T編集長経由コメントを廻してきました。それについて、ひと言、言わせてもらいます。
まず、私は「IPAの会議」とはまったく関係がないことは安岡孝一には想像できていないようですが、安岡孝一がその会議でどなたに、何を力説したかは、私の知ったことではありません。たとえ「縮退マップ」の細部に不備があっても、その措置は漢字「包摂」と同様な役割になるということには変わりがないし、タイムリーな話題を導入部として触れておくのはなんら差し支えない。私の個人意志によるこの展開に、安岡孝一がムキになっていることは、穏当を欠くように思い、プロ意識の欠如が招く悪しき例を示しています。この点について,何よりまず厳しく指摘しておく必要があります。
安岡孝一が連呼した「サッパリ理解できない」は、どうも真実なようです。私はそもそも安岡孝一の理解力を配慮して議論を展開したつもりはありませんでした。理解できないという単純な理由で大騒ぎするのはいかがなものか。騒げば何とかなるのは何時から覚えたのでしょう。そろそろ自分が世界の中心ではないぐらい理解してもよくはありません?
現在の「字体」「字形」概念の混乱ぶりを指摘し、「ソース・コード・セパレーション(ソース分離原則)」の非科学性をあぶり出すことは、私の使命であり、ほかの如何なる団体や個人とも関係がありません。「縮退マップ」がなくても、例え五年前でも、十年前でも,基本的な論旨は成立すると確信します。この重要なポイントにまるで理解できないのは、まさに安岡孝一の漢字理論知識の貧弱さがもたらした悲劇的な結果です。
ちなみに、漢字絡みのユニコード問題は、情報共有社会の必然性、通信技術面の可能性、漢字体系との整合性と合理性の上に成り立つもので、好きだとか嫌いだとかいう感覚的な次元の話ではありません。安岡孝一のユニコード嫌いの背後には、ユニコード原理に対する根本的無理解があるようで、その無理解が克服できない限り、そもそも生産的な議論が困難でしょう。