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トロッコ問題って、要するに「5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか」っていう例のやつだろ?
あれを功利主義がどうとか、義務論がどうとかと意味不明な誤魔化しをする輩を見る度に思っていたが「5人を助ける為に他の1人を殺す」というのは、すなわち明確な殺意だぞ
なにをどう誤魔化そうとも、どれだけ屁理屈をこねようともつまるところ、「おまえは5人を生かす為に1人を殺せるのか?」と、問われているわけだ
それに対し、「5人を生かす為に1人殺すわ」と答えることが、一体どうして「理性的」なの?そして逆に、「例え5人が死ぬとしても、自分は他人を殺したくない」と答えることが、どうして「感情的」と分類されるの?意味がわからん
>それに対し、「5人を生かす為に1人殺すわ」と答えることが、一体どうして「理性的」なの?
予測される生存者数を比較して決めた。
>そして逆に、「例え5人が死ぬとしても、自分は他人を殺したくない」と答えることが、どうして「感情的」と分類されるの?
「殺したくない」という「感情を優先」してしまい、決断しきれない。
ということかな。
「人が死ぬということのストレス」と、「自ら人を殺めることのストレス」を同一視するべきではない。
トロッコ問題の場合、「何もしなかったら5人死ぬのが確定している」けれども、それは選択者の意志によるものではない。そして「その5人を救うために1人を犠牲にする動作をした場合、その1人は能動的に殺したという自覚を持ちうる」という精神的負荷の問題でもある。「生き残った人数が多いほうが最適解だから理性的」っていう人は、逆にそういう人間の感覚を無視してるんだよね。
というか、その理屈を通すと「社会的コストを考えたら、生まれつき障害のある赤ん坊は殺したほうが最適解」とか、「60を越えた人間は社会負荷にしかならないので殺したほうが最適解」みたいなことが発生する。いや、(将来的に殺される側になることへの恐怖その他で社会にデメリットが生じるから)本当はそんなことはないのだけど、「5人生き残るほうが最適だから」というだけで1人の殺害を理性的としてしまう考え方を是とするなら、その点も無視されなければならなくなる。
つまるところ「トロッコ問題で5人を救って能動的に1人殺すほうが理性的」という考え方そのものが、本来考慮すべきパラメーターの一部を削ぎ落としての判断でしかないので、理性的でもなんでもない単純馬鹿の所業である、と。
何もしなければ5人死ぬのが分かってて何もしないのは自らの意思で5人殺してるのと同じだと思うんですよ。
やっぱりそう思ってしまうよね。ゆでガエルじゃないけど、的確に状況分析して対応できないと終了
未必の故意とただの故意は違うんじゃね?
「スイッチを操作できる立場の人」が「トロッコを暴走させて何もしないと5人死ぬ」状況を作ったわけじゃない、のが前提だよね?
もっと言うなら「見殺しにする」と「殺す」が同義なら、発展途上国とかの子供への募金なんかを求められて応じなかったことがある人は、全員、人殺しってことになるな
それはもう募金ビジネスとして成り立っていて、前世紀からずっとそれの上がりで生計を立ている人たちが大勢いるからな。貧困の社会問題解決をしようとせずに、子供を救うためという対処療法の名のもとに金を集める仕事。
それは正論だけどさ、ここでそれを持ち出したら、トロッコ問題も「暴走しないようなトロッコを作ればいい」で片付いちゃうのよね・・・
制度に問題があって、日々死者が出ている。毎月10のコストを支払えば対処療法はできる。集められるコストもこれが限界だ。ところが制度を変えるには1000のコストが必要で、そんな資金はどこにもない。さて、制度を変えるために100ヶ月(8年以上)の間、貯金を続ければ制度から変えてその後の死者をなくせる。但し、その8年間の間は死者が出続けるのを見殺しにしてもいいのか?
・・・と、考えると、これもまさにトロッコ問題の亜種になってくるなぁ。
>「社会的コストを考えたら、生まれつき障害のある赤ん坊は殺したほうが最適解」とか、「60を越えた人間は社会負荷にしかならないので殺したほうが最適解」みたいなことが発生その場合、多様性やらなにやらで、コスト計算だけでは測れないので無理。コストが最適解ではない場合もある。
トロッコ問題はシチュエーションが限定されているので成り立つ。
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弘法筆を選ばず、アレゲはキーボードを選ぶ -- アレゲ研究家
「理性的」とされる意味がわからん (スコア:0)
トロッコ問題って、要するに「5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか」っていう例のやつだろ?
あれを功利主義がどうとか、義務論がどうとかと意味不明な誤魔化しをする輩を見る度に思っていたが
「5人を助ける為に他の1人を殺す」というのは、すなわち明確な殺意だぞ
なにをどう誤魔化そうとも、どれだけ屁理屈をこねようとも
つまるところ、「おまえは5人を生かす為に1人を殺せるのか?」と、問われているわけだ
それに対し、「5人を生かす為に1人殺すわ」と答えることが、一体どうして「理性的」なの?
そして逆に、「例え5人が死ぬとしても、自分は他人を殺したくない」と答えることが、どうして「感情的」と分類されるの?
意味がわからん
Re: (スコア:2)
>それに対し、「5人を生かす為に1人殺すわ」と答えることが、一体どうして「理性的」なの?
予測される生存者数を比較して決めた。
>そして逆に、「例え5人が死ぬとしても、自分は他人を殺したくない」と答えることが、どうして「感情的」と分類されるの?
「殺したくない」という「感情を優先」してしまい、決断しきれない。
ということかな。
Re:「理性的」とされる意味がわからん (スコア:0)
「人が死ぬということのストレス」と、「自ら人を殺めることのストレス」を同一視するべきではない。
トロッコ問題の場合、「何もしなかったら5人死ぬのが確定している」けれども、それは選択者の意志によるものではない。
そして「その5人を救うために1人を犠牲にする動作をした場合、その1人は能動的に殺したという自覚を持ちうる」という精神的負荷の問題でもある。
「生き残った人数が多いほうが最適解だから理性的」っていう人は、逆にそういう人間の感覚を無視してるんだよね。
というか、その理屈を通すと「社会的コストを考えたら、生まれつき障害のある赤ん坊は殺したほうが最適解」とか、「60を越えた人間は社会負荷にしかならないので殺したほうが最適解」みたいなことが発生する。
いや、(将来的に殺される側になることへの恐怖その他で社会にデメリットが生じるから)本当はそんなことはないのだけど、「5人生き残るほうが最適だから」というだけで1人の殺害を理性的としてしまう考え方を是とするなら、その点も無視されなければならなくなる。
つまるところ「トロッコ問題で5人を救って能動的に1人殺すほうが理性的」という考え方そのものが、本来考慮すべきパラメーターの一部を削ぎ落としての判断でしかないので、理性的でもなんでもない単純馬鹿の所業である、と。
Re: (スコア:0)
何もしなければ5人死ぬのが分かってて何もしないのは自らの意思で5人殺してるのと同じだと思うんですよ。
Re:「理性的」とされる意味がわからん (スコア:1)
やっぱりそう思ってしまうよね。
ゆでガエルじゃないけど、的確に状況分析して対応できないと終了
Re: (スコア:0)
未必の故意とただの故意は違うんじゃね?
「スイッチを操作できる立場の人」が「トロッコを暴走させて何もしないと5人死ぬ」状況を作ったわけじゃない、のが前提だよね?
もっと言うなら「見殺しにする」と「殺す」が同義なら、発展途上国とかの子供への募金なんかを求められて応じなかったことがある人は、全員、人殺しってことになるな
Re: (スコア:0)
それはもう募金ビジネスとして成り立っていて、前世紀からずっとそれの上がりで生計を立ている人たちが大勢いるからな。
貧困の社会問題解決をしようとせずに、子供を救うためという対処療法の名のもとに金を集める仕事。
それは正論だけどさ、ここでそれを持ち出したら、トロッコ問題も「暴走しないようなトロッコを作ればいい」で片付いちゃうのよね・・・
制度に問題があって、日々死者が出ている。
毎月10のコストを支払えば対処療法はできる。集められるコストもこれが限界だ。
ところが制度を変えるには1000のコストが必要で、そんな資金はどこにもない。
さて、制度を変えるために100ヶ月(8年以上)の間、貯金を続ければ制度から変えてその後の死者をなくせる。
但し、その8年間の間は死者が出続けるのを見殺しにしてもいいのか?
・・・と、考えると、これもまさにトロッコ問題の亜種になってくるなぁ。
Re: (スコア:0)
>「社会的コストを考えたら、生まれつき障害のある赤ん坊は殺したほうが最適解」とか、「60を越えた人間は社会負荷にしかならないので殺したほうが最適解」みたいなことが発生
その場合、多様性やらなにやらで、コスト計算だけでは測れないので無理。
コストが最適解ではない場合もある。
トロッコ問題はシチュエーションが限定されているので成り立つ。